人生丸ゴト握ッテ回ス (野口武彦著作データ)

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2004-11-13太平の構図

[][]感想

「日本文明史」の中の一巻。江戸時代の誕生から終焉までを辿った概観史。本の性格上浅くさくっと浚っているため、いつもの野口節があまり見られず消化不良。自分が歴史の専門家ではないことを再三強調されるは、あえて第三者の素人からどれほど面白い視野が描けるかを試みるとの宣言と見たが、この人の強みはあくまで、ディテールに踏み込んだときの知的興奮を誘うリズムにあり。教科書的紀伝体にうんざりしている高校生諸氏には、手垢のついた言葉を敢えて使うなら「大河ドラマ」としての江戸時代の魅力が味わえる一品かと。幕末の旗本が書いて発禁になった歴史書を案内役に使うあたりは相変わらずの手練手管。

やっぱり、この後に出版された『忠臣蔵』『荻生徂徠』のほうがずっと面白いと思うがどうでしょうか。

2004-11-12江戸文学の詩と真実

[][]感想

最初の江戸文学論考。この時期(安保騒動の直後)に野口が江戸文学に託して語りたかった「詩と真実」を味わうべし。

後に『荻生徂徠』としてまとめられるケン園学派(字が出ない!)の領袖の一人であった太宰春台や、江戸後期文学を語る上で外せない太田南畝蜀山人に加え、畠中胴脈や祗園南海といったマイナーな文学者・儒学者が取り上げられている。太宰春台の堅物ぶりがユーモラスなのに比較して、蜀山人には案外冷たい(笑)論調になっているのが興味深い。

JasonBaistJasonBaist2017/01/25 04:18напечатать книгу киев http://wkrolik.com.ua/products/kalendari

2004-11-11江戸人の昼と夜

[][]感想

森鴎外は『高瀬舟』で、ちょんまげの時代に近代的自我を持った個人を描いたとして批判された。「近代的」かどうかは知らないが、個人の内面が社会や階級に括られない独立性を際立たせている人間を書いているときが、野口氏の筆が最も生き生きとしている瞬間ではないだろうか。

歴史上の人物は洋の東西を問わず、とかく鳥瞰的視点からマッピングされた歴史的ポジションという後世の色眼鏡からなかなか逃れられない。その色眼鏡の皮を一枚づつめくっていったときにどんな"人の生き様の深み"(ちょっと口幅ったい表現ですが)を見せてくれるか、が物書きの腕の見せ所。もって、題名の「昼と夜」に寓して語られる所の人間の精神の断面図、すなわち本書の主題である。ここで俎上にのっているのは、その「お坊ちゃま」の限界が淡々と語られる松平定信にしろ、近代日本の小説家と見紛うばかりの上田秋成にしろ、野口氏のお眼鏡に適った"曲者"ばかり。これは間違いなく「大人」の読む本であります。

2004-10-29近代日本の詩と史実

[][]感想

 「近代日本の文学的な事件現場のいくつかの再現」という切り口で集められた文章を収録した本書の概要は、巻末の小文「ノンジャンル・ラディカルをめざして」を一読してもらうのが一番確実だろう。著者は、江戸文芸の"随筆雑録"(これが何であるかは同文を読めばわかる)を現代に継承せんとしているようであります。"特定のジャンルによる束縛からいちばん自由なスタイル"と称するこの文章が、巷の凡百のエッセイから如何に遠いものであるかは、読者自ら熟読玩味していただきたい。

 各章の冒頭のいくつかを適当に拾い出してみる。

随筆とは、考証であった。(考証随筆の想像力)

「一番聞きたいことはね、……先生はいつ死ぬんですか」。

昭和四十五年(一九七〇)九月に発表された『獨樂』という短いエッセイは、その年の春の或る日の午後、三島由紀夫に一人の奇妙な訪問者があったことを記している。(幕末国学と三島由紀夫

サディズムという言葉の由来になったサド侯爵は、猥談が嫌いだった。(文学と精神分析

今ではもう忘れられた話題だが、一九六〇年代の初め頃、思想界にはわかるようでわからない言葉が三つあるというゴシップが流行ったものだ。吉本隆明の「大衆」、谷川雁の「原点」、それに橋川文三の「体験」だというのである。(戦後日本とロマン主義

明治の「め」の字は、めちゃくちゃの「め」。

明治の「め」の字はどう書くの。

たぶん山田風太郎のように「くノ一」と書くしかないのである。(文明開化という乱世)

詩と史実は連続している。(ノンジャンル・ラディカルをめざして)

上の文章の振幅の大きさが分ってもらえるだろうか。

2004-10-25幕末気分

[][]感想

「これらの出来事がどこかでタイムワープして現代日本につながっていると感じていただければ幸いである」(はしがき)

しかし、著者は幕末を現代日本にオーバーラップさせるのではない。現代日本がふっと遠ざかって幕末にシンクロしている様を眺めているのだ。距離感を保ちつつ物悲しさを含んだ眼差しと言ったらよいか。本書から感じるのは、舞台を見るが如く点描される幕末の風景から媒介なしにつながる現代日本である。

勝手な忖度を付け加えれば、更にその向こうには作者の若かりし頃の激烈な政治体験が隠れている気がする。例えば「帰ってきた妖怪」の鳥居耀蔵を見よ。鳥居といえば、「遠山の金さん」の敵役の町奉行、金田龍之介が演じてハマっていたのを覚えているが、彼が林大学頭家出身とは知らなんだ。天保の改革で妖怪と恐れられ長らく入牢していたその人物が、既に幕府の存在しない駿河に浦島太郎の如く戻ってくる。政治リゴリズムに骨まで浸かった者と時代に取り残された象牙の塔の再会。「などて将軍は攘夷したまわざりし」という鳥居の叫びに、著者の肉声が聞こえはしないか。

以下、いささか長くなるが、いくつか引用してみたい。私が感じた著者の"眼差し"をどこまで感じ取ってもらえるか心もとないけれど。

「幕末の遊兵隊」
テーマは、軍事召集時なのに遊ぶことを止めない幕府軍。

日々の無責任な軽佻浮薄は、いかなる情勢に対しても雑俳と駄洒落と茶番で応対することしか知らない江戸文明をたっぷり吸収している。年季が入っているのだ。深刻になると冗談で切り抜ける。必死になるなんてヤボな真似はしない。こうなると立派と言うほかないほど、江戸っ子の骨髄に染み込んで死んでも直らぬスタイルなのである。

このノンシャランスと長州兵の一心不乱との間には大きなギャップがある。これはもう遊び半分と生まじめの差ではない。文明のプレート境界だったとでもいう他はなかろう。

「地下で哭く骨」
井伊直弼とその懐刀だった長野大膳の話。

九月二日、梅田雲浜は伏見奉行の手で捕縛された。(中略)これらの逮捕理由がほとんど私的・感情的動機と区別がないことは興味深い。弾劾文がよほど心理的にこたえている。小心なのである。直弼が攻撃されたこともわが身の屈辱と感じている。自分が陰身(かげのみ)、直弼が現身(うつしみ)だからである。あるいは傷つきやすいエゴの延長だからである。

「道頓堀の四谷怪談」
歌舞伎役者中村仲蔵の自伝「手前味噌」を引用して、

この(井伊)大老襲撃場面は奇妙な印象を与える。激しい乱闘の場面なのに、声が発されていない。物音も短銃の発射が擬音語的に記されるだけで、他は聞こえない。声が麻痺しているかのようだ。

(中略)

何だかパントマイムでも見るように、現場の人間の動きだけを線画でたどっているからである。仲蔵は仕草にしか興味がない。凄惨な斬り合いをリアルに語るというより、立ち回りの型を付けている感じなのだ。そう。これは歌舞伎のト書の文体なのである。