人生丸ゴト握ッテ回ス (野口武彦著作データ)

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2004-10-25幕末気分

[][]基本情報

Title
幕末気分
発行日
2002/2/20
出版社
講談社
ISBN
406211092X

幕末気分

[][]目次

  • はしがき
  • 幕末の遊兵隊
  • 帰ってきた妖怪
  • 地下で哭く骨
  • 道頓堀の四谷怪談
  • 徳川慶喜のブリュメール十八日
  • 吉原歩兵騒乱記
  • 上野モンマルトル1868 -世界史から見た彰義隊

[][]出だし

 自分自身のことを書くのはあまり好きではないが、なぜ幕末社会が身近に感じられるようになったかの話だけ記しておくことにしよう。

 人間は大災害のさなかには、まわりの現実に何が起きているか理解できないものである。かえって自動人形のように日常の習慣をなぞろうとする。1995年1月17日未明に起きたM7.2の阪神淡路地震の当日、どうしても勤務先の大学に行かなければならない用件があって家を出た。車で国道までたどりついたら、大阪方面に向かう車輛でぎっしり埋まっているのを見て、なぜだろうと思ったのをよく覚えている。

(中略)

 歴史の変わり目には、自然災害と政治危機とは一つながりだという独特の現場感覚が日常的になる。人間は突然、従来の社会生活ではとても対応できない場面に放り込まれたと思い始める。めいめいが局地で孤立して、独自にアンテナを立てるともいえる。

(中略)

 話題にした七つの事件は、「幕末」とはすなわち府の期であり、260年続いた政体の崩壊期であるという現実をまざまざと示すに違いない。読者のみなさんに、これらの出来事がどこかでタイムワープして現代日本につながっていると感じていただければ幸いである。

[][]感想

「これらの出来事がどこかでタイムワープして現代日本につながっていると感じていただければ幸いである」(はしがき)

しかし、著者は幕末を現代日本にオーバーラップさせるのではない。現代日本がふっと遠ざかって幕末にシンクロしている様を眺めているのだ。距離感を保ちつつ物悲しさを含んだ眼差しと言ったらよいか。本書から感じるのは、舞台を見るが如く点描される幕末の風景から媒介なしにつながる現代日本である。

勝手な忖度を付け加えれば、更にその向こうには作者の若かりし頃の激烈な政治体験が隠れている気がする。例えば「帰ってきた妖怪」の鳥居耀蔵を見よ。鳥居といえば、「遠山の金さん」の敵役の町奉行、金田龍之介が演じてハマっていたのを覚えているが、彼が林大学頭家出身とは知らなんだ。天保の改革で妖怪と恐れられ長らく入牢していたその人物が、既に幕府の存在しない駿河に浦島太郎の如く戻ってくる。政治リゴリズムに骨まで浸かった者と時代に取り残された象牙の塔の再会。「などて将軍は攘夷したまわざりし」という鳥居の叫びに、著者の肉声が聞こえはしないか。

以下、いささか長くなるが、いくつか引用してみたい。私が感じた著者の"眼差し"をどこまで感じ取ってもらえるか心もとないけれど。

「幕末の遊兵隊」
テーマは、軍事召集時なのに遊ぶことを止めない幕府軍。

日々の無責任な軽佻浮薄は、いかなる情勢に対しても雑俳と駄洒落と茶番で応対することしか知らない江戸文明をたっぷり吸収している。年季が入っているのだ。深刻になると冗談で切り抜ける。必死になるなんてヤボな真似はしない。こうなると立派と言うほかないほど、江戸っ子の骨髄に染み込んで死んでも直らぬスタイルなのである。

このノンシャランスと長州兵の一心不乱との間には大きなギャップがある。これはもう遊び半分と生まじめの差ではない。文明のプレート境界だったとでもいう他はなかろう。

「地下で哭く骨」
井伊直弼とその懐刀だった長野大膳の話。

九月二日、梅田雲浜は伏見奉行の手で捕縛された。(中略)これらの逮捕理由がほとんど私的・感情的動機と区別がないことは興味深い。弾劾文がよほど心理的にこたえている。小心なのである。直弼が攻撃されたこともわが身の屈辱と感じている。自分が陰身(かげのみ)、直弼が現身(うつしみ)だからである。あるいは傷つきやすいエゴの延長だからである。

「道頓堀の四谷怪談」
歌舞伎役者中村仲蔵の自伝「手前味噌」を引用して、

この(井伊)大老襲撃場面は奇妙な印象を与える。激しい乱闘の場面なのに、声が発されていない。物音も短銃の発射が擬音語的に記されるだけで、他は聞こえない。声が麻痺しているかのようだ。

(中略)

何だかパントマイムでも見るように、現場の人間の動きだけを線画でたどっているからである。仲蔵は仕草にしか興味がない。凄惨な斬り合いをリアルに語るというより、立ち回りの型を付けている感じなのだ。そう。これは歌舞伎のト書の文体なのである。